京都大学には「探検大学」という異称がある。そう言われるようになった契機は1958年。桑原武夫隊長率いる学士山岳会隊がヒマラヤのチョゴリザに初登頂。さらに今西錦司によるアフリカ探検、西堀栄三郎による南極越冬、川喜田二郎による西北ネパール、中尾佐助によるブータン、梅棹忠夫による東南アジアなどの学術探検が一気に花開いた。ちなみに、桑原・今西・西堀は京都帝大旅行部(今の京大山岳部)の同級生だ▼彼らの専門分野の論文を読んだことがある人は少ないかも知れないが、社会的認知度は次のような理由でも非常に高い。第二芸術論(桑原)、棲み分け進化論(今西)、雪山賛歌作詞(雪よ岩よ我らが宿り…)(西堀)、発想法のKJ法(川喜多)、日本人初のブータン入国(中尾)、文明の生態史観・知的生産の技術・京大式カード(梅棹)…、彼らが世の中に残した知的財産はいまも色褪せていない▼登山や探検に夢と精力を注ぐだけでなく、それを学術研究へと結びつける。これを梅棹さんは、「未踏の大地(フィールド)へのこころざしは、あらたな学問領域(フィールド)の開拓につながっている」と表現したという▼ここには文系・理系、分野間に境界を築く狭い考えはない。新たなフィールドへの夢のもと、知的成果を統合するダイナミズムを感じる。(21・5・12)

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