企業の価値観を変えている新型コロナウイルス。デンカは治療薬に期待される「アビガン」の原料、マロン酸ジエチルの生産体制を青海工場(新潟県糸魚川市)に急遽整備。一度は火を止めた設備に再び命を吹き込む慌ただしい過程で、同社内で社会貢献の概念、そして化学企業としての存在意義はリアリティーを増した。同時に電光石火で実現した出荷までのプロセスが、メーカーとしての自己認識も強くした。試練は悲観をもたらすだけではない。隠れていた価値を再発見する契機にもなる。

 今井俊夫取締役専務執行役員とマロン酸エステル(ME)には奇妙な縁がある。MEは、青海工場内にある関係会社の十全化学のプラントで40年前から製造していたが、2012年、デンカはME事業を十全化学から承継。当時経営企画に在籍し、この調整を最後まで見届けた今井氏は、その後に移ったエラストマー事業でも、MEは管掌する製品の一つとして付いてきていた。当時、供給先はジエチルが医薬中間体、農薬原料向け、ジメチルは香料向けで、後者の方が規模は大きかった。

 それでも「3000トン能力の稼働率は半分程度だった」という。事業を継続していたのは、国内ユーザーへの供給責任から。だが、15年頃に中国品が安値攻勢をかけ、値下げ圧力に窮したデンカは17年に事業撤退を決定。一つの製品を初めから終わりまで体験した今井氏は、今になって「本当に小さな不思議」と振り返る。だが、当時は事業採算性を考慮するなかで消えていった製品の一つに過ぎなかったろう。もしコロナがなければ、記憶の彼方に忘却されていたかも知れない。

 コロナの感染拡大にともない、アビガンに注目が集まった3月末。経済産業省からマロン酸ジエチルの照会を受け、「何の話だろう」といぶかった今井氏は、国内の供給安定確保のための再稼働構想を聞き、戸惑いを覚えた。製造設備は青海工場に残っていたものの、「3年もほったらかしていた」からだ。配管は傷んでいるだろうし、コンプレッサーやモーターなど230点にのぼる機器類がスムーズに作動するかも分からない。もともと40年前の古い設備。余剰人員があるわけでもない。

 しかも経産省は当初、4月稼働を要請。「とても無理だ」。点検、消防署との連携など、やるべきことは山積している。だが、国難を目にして躊躇している場合ではなかった。「1カ月は難しくても、何とかやろう」。山本学社長の思いも同じだった。幸い事業撤退が3年前と近い時期だったこともあり、他製品の製造部署にマロン酸ジエチルの操業に携わっていた人が残っていた。「エンジニアリングは全社で対応するしかない」。結果的に200人を投入する大がかりな作業になった。

 走り出した大計画。だが、どうしても人員編成に無理が出る。他製品の製造が人を奪われる格好となり、「一部の製品ラインを減産したり、停めないとできなかった。当然出荷は遅れてしまうが、ユーザーに事情を説明し、協力していただいた」。機器類も交換が必要だったが、賛同した機械メーカーが部品を優先的にデンカに回すだけでなく、メンテナンスにも手を貸してくれた。「地域の消防、官公庁にも協力していただいた」。OBの話を聞き、研究所や他工場も加わって触媒も新たに開発した。

 反応設備はまだ動いた。だが、「原料のモノクロル酢酸は劇毒物で、COも使うので慎重な対応が必要になる」。ただでさえ神経を擦り減らす再稼働に向けた作業。それが感染の脅威のなか、密集を避けなければならない制約された条件下で続いた。総力戦で難事に当たった結果、5月中旬、わずか6週間で再稼働体制を構築し、6月1日に出荷に漕ぎ着けた。政府によるアビガンの今回の備蓄目標は200万人分。デンカは「7月までに必要分のマロン酸ジエチルを作り終える」という。

 素材メーカーは黒子だ。アビガンのサプライチェーンは長く、今までなら原料にスポットライトが当たる機会はなかったろう。だが、コロナがアビガン原料を製造するデンカを表舞台に引き出した。世界が直面する危機への直接的な貢献。「素晴らしい、応援しているという声が寄せられ、社員は誇りに感じている」。働き方改革どころではないスケジュール、関係各所との調整。プレッシャーのなかでの早期の再稼働実現は、同社のメーカーとしてのポテンシャルも改めて浮き彫りにした。

 マロン酸ジエチルの再稼働は営利企業の判断とは逆行するものだ。そして「サステナブルな事業でもない」。設備は必要量を製造したら役目を終える。ワクチン開発のタイミング、アビガンの有効性の確認、海外需要などによって変わる可能性はあるが、生産しない期間が長引けば休眠設備は負担にしかならない。それでもデンカは踏み出した。国の要請という面はあるが、黒子の意地も垣間見えた気がする。それは結果的に、化学業界から社会へのメッセージになったようにも思える。(佐藤尚道)

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