乳製品や卵も摂らず「完全菜食主義者」とも称されるヴィーガン。動物由来のものを遠ざけて動物の命を尊ぶことから「食」というより「心」のライフスタイルともいわれる。ある人にとっては、小さな虫を押しつぶすことにさえ嫌悪感を催すようだ。ところが、その人に「植物にも動物と同じく命があるのでは」と問いかけると、あいまいな答えしか返ってこなかった。

 国際的に批判の声があり、日本や北欧が問題の渦中にある捕鯨には「海の生物多様性を守る側面がある」ともいわれる。鯨が食べる小魚やプランクトンは膨大な量に上る。適切に捕獲しないと、鯨の数が増え過ぎて他の魚が食べられるものがなくなり、生態系が乱れるという理屈だ。他の野生動物保護のケースでも、たびたび指摘されることではあるが、生物多様性を考えていくうえで一つの意味ある視点といえる。

 世界の人口急増や気候変動を背景に、畜産などが追いつかず、たんぱく質が不足する「たんぱく質危機」の到来が予測されている。植物肉や培養肉、さらに近年注目されているコオロギなど昆虫食-。食卓に供されるたんぱく源が非畜産物になる社会が出現する可能性がある。代替肉については、環境負荷が低いという意義もある。

 一方、動物の肉を食べなくなったからといって、畜舎から牛・豚・鶏を放ち「野生動物として、のびのび生きてもらえばよい」とはいかない。社会問題化しないよう、一定に管理された、変わらぬ環境に置かれるに違いない。

 また生物の生命という視点から言えば、たんぱく源の食糧として植物や昆虫を効率的に生産することは、生命の管理である。畜産業と何ら変わりはない。ただし農作物が普通に市場に出回り、広く食べられているなかで、代替肉について「不自然に制限された環境で育てられた植物だから食べない」という人が出て来るとは考えにくい。

 犬や猫などの虐待には心を痛めるのに、プランクトンや微生物の運命には無頓着である。「生命とは物質とエネルギーである」という考えは、人間の感受性から少し距離があるようだ。命の尊さは、個体の大きさ、あるいは人間がその生命を奪うことに罪深さを感じるかどうか、つまりは想像力に立脚している。想像を超えた先にある生命活動には感情が働かない。人間のエゴとも言えるだろう。

 しかし生物多様性の保全に関して言えば、菌や微生物など目に見えない種も含まれている。また化学物質による環境汚染といった問題も加わってくる。事態はいよいよ複雑になってきた。

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